☆加藤正文さんインタビュー(第1回)

ストラングラーズの日本でのマネージメントを長年多掛けられてきた、加藤正文さんのインタビュー。第1回は、加藤さんがキングレコードでストラングラーズを手掛けられる前の、ワーナーでのご経歴から、ファーストアルバム「夜獣の館」日本リリースあたりまでのお話をアップしています。

 

まず最初、加藤さんがお持ちいただいた、ストラングラーズ1970年代後半の、様々なプロモーション資料を拝見させていただきました。

吉田(以下、Y) いやあ、すごいですねえ!素晴らしいですね!この数々の資料。

加藤さん(以下、K) 昔は資料作るのが好きだったんですね。写真が多い方が新聞・雑記みたいだから、できるだけ使いたい。これも、無理やり写真を切り抜きして貼って(笑)。見る人も飽きないだろうなと。

Y ここに歌詞の対訳も、もう載せているんですね!

K 1枚目(夜獣の館)の時は歌詞が無くて、聞き取りなんですよ、ワーディングって言って。日本にいる聞き取り専門の外国人の人にテープを渡して。英語の歌詞を聞き取りで起こしてもらう、そんな時代でした。2枚目(ノーモアヒーローズ)の時も聞き取りで起こしたものを、ジャン・ジャックにチェックして貰って、手直しした跡が残っていました。ミスタイプもあったりするので。

Y (海外のアーティストは)あまり歌詞カードをわざわざ入れたがらないですよね?

K 多かったですね。

Y レコードにはついていない歌詞対訳が、プロモーション資料には載っているのですね!

K というのは、歌詞について、マスコミとか評論家など、発信する側には理解しておいて欲しいなっていうのがあって、それ用ですね。普通ここまでやったら、レコードに付けますよね?
間に合わなかったんですね、最初は。

Y ブラック&ホワイトの時は、(ブラックサイドとホワイトサイドで色分けされた)見事な歌詞カードが入っていましたね。

K あの時は確か中川五郎さんに訳詞を頼んで、彼はシンガーソングライターなので、訳詞でも表現が面白かった。
そう言えば、1枚目の時は、ジャン・ジャックという読み方がまだわからなくて、ジーン・ジャック・バーネルと読んでいた(笑)。ジャックは、ジャック・ブレルとかいるからまだ読めるけれど、ジャンというのが、ジーン・ジニー(David BowieのJean Ginie)のJeanと同じですからね。後日Hughにあった時はジョンと呼んでいましたね。

Y これから当時の状況をお聞きさせていただくのですが、ファンの方の中には、まだ加藤さんのことをよく知らない方もいらっしゃると思いますので、あらためて経歴をお伺いしたいのですが。

K いやいや、私は知られなくて大丈夫です(笑)、裏方ですから。

Y いえいえ、とんでもない。加藤さんはキングレコードに入って、ストラングラーズを担当される前に、ワーナーにいらっしゃんたのですね?

K そうですね、ワーナー・パイオニアに。大学4年の頃からディレクターになって、その前にソニーでもバイトやっていたんですよ。CBSソニーが出来たばかりで、いわゆる外資とのジョイントベンチャーの第一号ですよね。そのうちにワーナー・パイオニアがスタートした。

Y ソニーに入るつもりがワーナーに入られたのですね?

K ワーナー・パイオニアが出来て、日本では2社目の外資とのジョイントベンチャーだったんですね。
アメリカのワーナー:50と日本のパイオニア:25とナベプロ:25っていう資本で、レッド・ツェッペリンとかグレイトフル・デッドとかジェイムズ・テイラーとか、自分の好きなものがいっぱいあったので。「ああ、あっちが良いな」というので。それで紹介して貰ってワーナーに行ったんです。

最初はアルバイトで、テープの編成でカートリッジっていう、カーステレオに入れる8トラックって言うんですけどね、まあご存知ないかも知れないけれど、それの編成で、フランク・シナトラとかディーン・マーティンとかをやっていて。その後リプリーズ(Reprise Records)の担当になって、で在学中からもうレーベル担当のディレクターになったんです。

その頃はラッキーで、担当するとヒット作が海外から届く。例えばニール・ヤングの「ハーヴェスト」とか、ディープ・パープルの「マシン・ヘッド」とか、ちょっとしたらクイーンとか、契約でどんどん来て。アサイラム(Asylum Records)も来てイーグルスとか、ボブ・ディラン&ザ・バンドとかね、

それでクイーンをずっとやっていたんですけれど、クイーンの3枚目まで出して、初来日の3日前まで担当していた。

その後営業所に行って10か月くらいセールス・マンをやったんですけれど、これは違うなと思って。その時は、日本のロックバンドのプロデュースをやりたいなと思っていて、アメリカに行ってエンジニアの勉強をしようと思ってワーナーを辞めました。

アメリカから帰ってしばらくしたらキングレコードから誘いがあったのでそのまま入社しました。
キングに入って、最初はELO、エレクトリック・ライト・オーケストラの担当をして。ELOは以前から好きだったんですよ。”A New World Record”は東芝で出たやつの再発だったんですけれど、”Telephone Line”を日本でシングルカットしてラジオで1位になったり。

同時期に、ストラングラーズっていうのが、イギリスで凄いらしいということで聴いてみたら、すごくカッコいい、良く出来てる、これは売らないと、と思いましたね。キングの中ではすでに、2、3回編成会議にかけたらしいんですけれど通ってなかった。

Y ストラングラーズは、3、4回会議で落とされたっていう話ですよね?最初”Rattus Norvegicus”の邦題には「怪傑ネズミ小僧」という名前が候補に挙がっていたらしいですね(笑)。
いやあ、ネズミ小僧にならなくて良かったです。

K なんか、ネズミ野郎とか、ネズミ絡みのタイトルが何個か候補だったらしいですけれどね。まだそれは僕が入る前なので、具体的なことは知らないですが、そんな話を当時の課長から聞いて。

Y 「夜獣の館」という邦題は、ものすごくセンスありますよね。

K そうですかね。

Y これは「野獣」ではなく「夜獣」ですからね!

K ジャケットに、古い感じの部屋の壁に動物の頭がいっぱい飾ってあったじゃないですか。あれで、ネズミじゃないだろうな、って思って。で、獣の方にしたんですね。

Y 辞書で調べると、いちおう、クマネズミかドブネズミの学術名が出てきますね。

K ノルウェーとか北欧の方のネズミって、ものすごくデカいそうなんですね
。1メートルくらいある、そんなデカいネズミだと不気味というか、怖いじゃないですか。
初期の頃には、ステージからネズミを何匹か客席にバッと放したりとか、っていう話しが。たしかジャン・ジャックから聞いたんですけれど。

Y 本物のネズミですか?!これ書いちゃっていいのかな。

K まあ噂っていうことで(笑)。
ジャケット写真を見て延々と悩んで、自分じゃカッコいいと思ったんでしょうね。夜のイメージというか、夜中で怖いというか、そんなイメージで「夜獣の館」とつけたんですね。

Y ワーナー時代も、加藤さんのつけた邦題は、カッコいいの多いですよね!
レッド・ツェッペリンの「アキレス最後の戦い」は、加藤さんが付けられました!

K あれは自分でもいい方ですね(笑)。

Y あとELP,エマーソン・レイク&パーマーの「恐怖の頭脳改革」も加藤さんです!

K 今になると恥ずかしいですね(笑)。

Y 当時の洋楽の邦題って、あまりにぶっ飛んじゃっているものが多いんですが、加藤さんの付けられたものは本当素晴らしいです。
クイーンの「戦慄の王女」も加藤さんですよね。

K まあ「王女」も色々問題起こしてますけどね。あれはちゃんとした考えがあってつけたんですけどね。「雰囲気で付けた」って、この前ウイキペディアを見たら書いてありましたけれど、雰囲気で付けたんじゃないっつうの(笑)。

Y UAレコードは、当時キングで全部権利を持っていたのですか?ドクター・フィールグッドやバズコックスなどもそうですよね?ジャーマン・ロックのCANとか。

K そうですね、東芝から移ってきたばかりでしたから再リリースもしたり。他に999、ホークウインドとか。キングではUAの担当が何人かいましたが、ジャズ、ヴォーカル・カントリーなどは担当が別にいて、ロックは一人でやってたのかな。

Y この資料にも出ていますけれど、「夜獣の館」の日本盤の発売は、1977年の9月21日ですよね。この時、次のアルバム「ノーモアヒーローズ」は、本国では既に出ていた、ということになるようですが?

K そうでしたっけ?出たばかりなのかなあ。ノーモアヒーローズはその後に来ているので、ファーストを出して、ジャンジャックが空手で来日した時には原盤が来てたのかな。たぶんその時に歌詞をチェックしてもらったと思うんですね。

Y 年表に起こしてみると、当時のストラングラーズのリリースのペースというのはものすごく早くて、ファーストから早くも半年でセカンドが出ているんですね。
リリースのペースが早いですよね。ファーストからノーモアヒーローズ、ブラック&ホワイトが出るまで1年ちょっとですから。
しかも1枚出すごとに、音のテンションがどんどん上がって、急成長していますからね。

K 早いといえば早いですね。1977年に2枚出して、78年にブラック&ホワイトですか。
この資料を読むと、バンドを結成してから契約に至るまで1~2年ある訳じゃないですか。その時期にロンドンのクラブサーキットでは、どんどん有名になっていったみたいで。
ナッシュビルを拠点にしていたんですかね。ナッシュビルっていうライブハウスがあるんですけどね、その頃までに、ノーモアヒーローズまでの曲もすでに演奏している。

Y ファーストアルバムのレコーディングの時に、ノーモアヒーローズの半分くらいの曲も一緒にレコーディングしたらしいですね。BBC In Concertというライブアルバムは、ファーストアルバムが出た時期らしいですが、もうDagenham DaveやI Feel Like A Wog、Straighten Outが演奏されていますね。

K スクール・マムもかなり初期から演奏していたようです。デビューする前から、ライヴシーンでは結構人気の曲だったみたいで。この資料あとで見ていただければわかるんですが、グリップとか、プリンセス・オブ・ザ・ストリートとか、スクール・マムとか、デビュー前から人気曲だったみたいで、ライヴでの定番だったようですね。

Y しかし、ノーモアヒーローズでは、ファーストにくらべて演奏のテンションがものすごく上がっていて、同じ時期にレコーディングしたというのが信じられないくらいです。

K 音創りの影響があると思います。ファーストとセカンドで若干変わったみたいで、セカンドの方が少しクリアというか、シャープなミックスになっていますね。機材を買ったからかも知れない(笑)。

Y 初期のライヴ音源を聴くと、当時すでに演奏されていたセカンドの曲は、ファーストアルバムの曲と似たようなテンションで演奏されていたとは思います。でも、同じ曲でも時間を経てどんどんパワーアップしていった、という。

K ファーストからセカンドは、どんどんテンションが上がっていく感じですけれど、ジャン・ジャックが言っていたのは、ブラック&ホワイトからは、曲の強さをもっと出すために、今までとは逆にテンポをぐっと落として、曲をストロングにするんだ、という言い方をしていて。イン・ザ・シャドウズとか、ベースが低いボトムですけど、役割をあの辺から意識的に変え始めていたんでしょうね。

Y 「夜獣の館」の日本盤は、イニシャル1500枚くらいでスタートしたと聞きましたが?

K 本社初回はそのくらいの数字をつけて、実際はもうちょっと低かったんじゃないですかね。編成会議の前に、制作部内での企画会議があって、これは売れますよと提言して。で営業を交えての編成会議を制作、宣伝、営業の合同でやって、そこで発売が決定するんですけれど、営業からは反対というか、いやこれは売れないよって言われて。それでこれは前のSISのインタビューの時にも言ったんですけれど、絶対に売れるから、って。

宣伝の方は、制作でどれだけやれるか、まずは様子見というところで、営業はそういうのは関係なく、オーダーが取れてなんぼの世界ですから。なので営業の人には毎朝ストラングラーズは売れるんだ!と3回でも5回でも念仏唱えるように、とにかく絶対売れるから!と言って。

下手すると初回は実質500枚とか700枚とか、正確な数字は覚えていないんですが。出してからはプロモーションも、こういう資料をけっこう作っていったんですよ。ニュースがくるたびに資料を作って。

で当時、マスコミというか音楽専門誌の中でも、パンクは売れないだろうみたいな空気で。福田一郎さんという評論家の大御所が、オリコンに書かれたんですけれど、セックス・ピストルズとエルヴィス・コステロは売れるかも知れないけれど、ストラングラーズやダムドは売れないよって、もし売れたら、六本木の交差点から東京タワーまで、逆立ちしてやるって(笑)、そんなことを書かれて、冗談じゃないと。

 

 

※インタビュー掲載第1回分はここまでです。この後、実際に国内盤が発売になった後のプロモーション状況、初来日へ向けての動きをお聞きした分をアップしていきます。お楽しみに!