☆加藤正文さんインタビュー(第2回)

ストラングラーズの日本でのマネージメントを長年多掛けられてきた、加藤正文さんのインタビュー。第2回は「夜獣の館」「ノー・モア・ヒーローズ」のでのプロモーション、ジャン・ジャック・バーネルの初来日や極真空手入門、加藤さんが渡英されてご覧になった英国ツアーでのお話等をアップしています。

K 当時、マスコミというか音楽専門誌の中でも、パンクは日本じゃ売れないだろうみたいな空気で。福田一郎さんという評論家の大御所が、オリコンに書かれたんですけれど、セックス・ピストルズとエルヴィス・コステロは売れるかも知れないけれど、ストラングラーズやダムドは売れないよって。もし売れたら、六本木の交差点から東京タワーまで、逆立ちしてやるって(笑)、そんなことを書かれて冗談じゃないと、よりやる気になりました。

K プロモーション的には、大貫さんは雑誌でとか、渋谷陽一さんはロッキングオンや、NHKの番組でも紹介してくれたり、好意的な人もいました。シンコーミュージックは、ミュージックライフでは扱えないからみたいな感じで、ジャムという新しい雑誌が出来た時だったので、ジャムの編集長がストラングラーズを応援してくれるようになって、雑誌の付録で、ストラングラーズや色々なパンクバンドをコラージュしたポスターを作ってくれたりしましたね。

K 新聞ではイギリスでのパンクのムーブメントが外電で入ってきたりで、朝日新聞では、社会欄でストラングラーズが取り上げられたりとか、最初は音楽欄っていう感じではなかったんですよね。あとZOO、いま”DOLL”という名前ですけれど、ここはパンク色を全面に打ち出してましたね。
そんな感じで徐々に日本でもムーブメントが浸透してきて、コロンビアとかポリドールとかレーベルを超えて、ピストルズ、ジャム、ストラングラーズ等のプロモーションフィルムを集めて、喫茶店でもフィルムコンサートをやったりとか、草の根運動もけっこうやっていました。

Y いやあ、素晴らしいですね!
Y そういう流れがあって、わりと早く1万枚越えしたのでしょうか?

K そうですね。5千とか6千とかはすぐに行き始めた。でその後、ノーモアヒーローズが出て、イギリスでもまた売れて、日本でもイニシャルが多めになって、宣伝費もかけられるようになった。でイギリスからノーモアヒーローズのトレーナーやTシャツを輸入して宣伝用や雑誌プレゼント用に配ったり。
ノーモアヒーローズの売上げが伸びて、それにつられてファーストも伸びましたね。それで、ジャン・ジャックがプロモーションに来たのは、(資料では)いつ頃になっていましたっけ?

Y ファーストアルバムの「夜獣の館」を日本でリリースする前に来日しているようですね。

K イギリスの国際部長から、ベーシストのジャン・ジャックをプロモーションで日本に行かせることができる、というので、これは良いタイミングだということで日本に来てもらって、短い滞在日数だったけれど、インタビューをやたら入れたんですよ。

Y (資料を見ながら)かなりタイトなスケジュールですね!

K 着いた日は落ち着いてもらって、次の日は朝から取材で、ジャムの電話インタビュー、でNHKのヤングジョッキー、これは渋谷さんですね、でロッキンFもあって、ものすごい取材やってますね。で移動して、新譜ジャーナル、音楽専科、ミュージックライフ。1日6本取材入れて。次の日もFM東京に行って、GORO、ザ・ミュージック、ZOOをやって、そしてラジオ日本、当時ラジオ関東って言ったんですね、このインタビューはホテルで。

夜はコンサート・プモーターの社長との会食や、レコード各社が集まっていた場所に顔を出したり。
プロモーターの社長との会食の時には、ジャン・ジャックが突然社長の顔におしぼりを投げてビックリしましたが、それに対する社長の切り返しが見事で、「彼は本物のサムライだ!」って尊敬に変わったのですが、冷や汗をかきましたよ。
レコード各社の集まりでは、ひとこと挨拶をと言われて「ボロックス!」と切り捨てたり、過激な言動もしていましたね。

Y それにしても、1977年にファーストアルバムが日本でまだ出る前に、これだけ充実した取材が入っているというのは、本当に驚きますね。レコードも出てないし、来日のライブもまだ行われていない訳ですからね。

K 事前に相当プロモーションをやっていたから、これだけのスケジュールを組めたんですね。

ジャン・ジャックがプロモーション来日する時に飛行場に迎えに行ったんですけれど、なかなか出てこないんですよ。やっと出てきたと思ったら、ファーストアルバムを30枚くらいと、あとメロディー・メーカーのストラングラーズが表紙の雑誌も50冊とかを大きなカバンに入れで持って来ていて。いや、日本にもあるわと思ったんだけれど(笑)。それはUAから持たされたそうで。入国審査で「これを売って日本で商売するのか?」って疑われて、身体検査までさせられたそうです。
出てきた時は不機嫌で。「ほい、これ全部お前らのだよ!」って。「自分の荷物は?」って聞いたら、小さなコンビニの袋みたいな中に、パスポートとパンツ1枚とか、そんなものしかないんですよ。「ええっ?って。パンクだなあ!」と思いましたね(笑)。

Y そうすると、ファーストアルバムがリリースされる時には、かなり雑誌や放送とかで同時にバーンと出て、かなり話題になっていた感じですよね?

K そうですね。当時は、レコードが海外で出てから日本盤が出るまで、通常は3か月くらい後になるんですよ。プレスとかマスターテープとか、もろもろパーツの関係で。海外からマスターテープが来た段階から資料を作って、それからプロモーションをはじめるので、発売日の2~3か月前からプロモーションはしていましたから。

Y これだけのハードなスケジュールだと、インタビュー受ける方も大変ですよね?

K 最初はジャン・ジャックも、俺はパンクだから、移動はタクシーじゃなくて電車でいいんだと言ってたんですよ。でもスケジュールがきついので、やっぱりタクシー乗ろうかという話になってきて(笑)。一日の取材が終わるとお疲れということで指圧をやってあげたりとか。

Y この1977年のプロモーションが、ジャン・ジャックの最初の来日で、次は翌1978年、空手の修行での来日ということになりますか?

K そうですね77年の時は、恵比寿に空手道場があるから、というので紹介されて見学に行ったんですけど、子供も大勢来ている、コンタクトなしの空手だったんですね。で、そうじゃないんだ、リアルカラテを見たいんだ、ということで、その時は極真には行けなかったんですけれど、どうしても空手をやりたいということで一人でまた来ました。
でこの時は僕の家に泊まることになったんですよ。うちの家族は実家に帰っていただいて(笑)。で、ジャン・ジャックを東池袋ですかね、極真の本部に連れて行って、入門手続きをして、イギリスでは彼はその当時たしか紫ベルトだったかな?それなりにランクが上だったんですけれど、日本ではとりあえず白帯からと。

入門手続きをしていたら、ちょうどその時「(大山)館長、お出かけになります!」という声がかかって、そうするとやっぱり、空気が変わるんですよ!みんなピリピリとして、廊下を見たら全員、ズラッと直立不動で並んで、大山倍達さんがそこをお出かけになるんですけれど、うわー本物だ!と。「空手バカ一代」という漫画では知っていましたけど、すごい存在感で、こっちまで緊張して背筋がピーンと伸びましたね。

で通い始めて、組手もやって、何回か通っているうちに、5人掛けをやって帰ってきた時にすごく痛がっていたんですよ。胸というか腹のあたりを。
で「そのくらいで弱音をはくなよって、明日も行ったほうがいいよ、ガンバレ!」って言って(笑)。で送り出して、帰ってきてからも本当に痛いというので、医者に行ったら、リブが折れています、というので、肋骨のはじっこになるんですかね、最初リブってよくわからなくて、スペアリブしか思いつかなくて(笑)、肋骨のはじっこの骨が折れちゃったというので、しばらくはお休み、という感じになって。それで夜中にマネージャーに国際電話をかけて報告するんですけど、マネージャーはすごく心配して「ダメだ、すぐやめて早く帰って来てくれ」という話になったんですよ。

K その頃僕の家は学芸大だったんですけれど、トイレが和式なんです。風呂の入り方とかトイレとか全然習慣が違うので目がテンになっていました。そんな時シンコーの人の紹介で、シンコーがARB用に部屋を借りていて、そこにドラムのキースが一人で住んでいるので、部屋が空いてるよ、ということで、それならキースのところに泊めてもらいましょうか、ということになり、キースのところに行ったり、家に来たり、そんな感じでした。

Y 加藤さんは当時、ブラック&ホワイトのツアーに招待されて、現地でライヴはご覧になられているんですよね?

K ええ。ツアーというか、ロンドン市内ではコンサートを禁止されている時ですが、UAからは、一度ストラングラーズを見に来ないか、ということで、招待してくれました。ロンドンから車でスタッフォードという所まで、国際部のアンガスという若い人が連れていってくれて、彼のガールフレンドも一緒に行くんですけれど、スタッフォードまで行って、でライブが終わるまでには、バック・ステージ・パスを用意するから、とりあえず観客が入れない2階のスペースで見ていてくれ、と言われて観たんですね。スタッフォードの会場というのが、カウパレスみたいなところで、かつては牛とか馬の競売場だったところを改修して、コンサートもできる広い会場になったところでした。でブラック&ホワイト出した直後くらいですかね。前座がスティール・パルスっていうレゲエ・バンド。スティール・パルスはストラングラーズがかなり面倒を見ていてレコード契約取ってあげたりしたグループ。ストラングラーズはそういうことを他にもやっていて、ポップ・グループもそうなんですね。ポップ・グループもストラングラーズが後押しして契約まで行ったりとかね。

Y ヒューが彼らのことをかなり気に入っていた、と聞きましたが。

K 好きでしたね。ヒューは一枚目の”Y”が特に好きだと言っていました。ジャケット・デザインがない、黒のままで、真ん中が切り抜きで、レーベルがそのまま見える、みたいなのです。
で、その時のライヴはすごかったですね。観客も何千人とものすごく入っていて、ストラングラーズが出てくると、もう大騒ぎですよね。前半は普通のセットを演って、照明も激しいカラフルな演出で。で、ブラック&ホワイトのセットに変わる時に、ヒューが”Black And White!”ってシャウトするんですよ。そうすると照明がバーンと変わって、白いひたすらまっすぐ拡がらずに明かりが飛ぶエアークラフトライトという照明があって、それがステージの後ろから前に何本もダーッと来て、で両サイドからも来て、白いビームの檻の中で演奏しているみたいになるんですね。うおーって興奮しましたね。それでブラック&ホワイトの曲を続けて、そして本編が終わって、アンコールで長尺な曲をやって。それはもう格好良すぎ、実力がとんでもない、感動的なライブでした。ジャンジャックは、ベースを弾きながら人間離れした見た事もない動きでね。ベースを立てにして、片足をまっすぐ垂直に上げて、その状態で何回も回転しながら弾くんですよ。いまだに目に焼き付いています。

Y その時は、ブラック&ホワイトのアルバム自体は、もうリリースされていましたか?

K 出た直後くらいじゃないですかね。ちょうど出すあたりのツアーなんでしょうけれど。スタッフォードはロンドンから一番近いっていうか、近いといっても結構遠かったですけれどね。その晩は一泊しなければ帰って来られなかった。終わった後に楽屋に行って、ジャン・ジャックとは会うの2回目?だったので、「来たか!」みたいにな感じで、メンバーを紹介してくれて。最初にヒューを紹介してくれたんですけど、ヒューと握手をするときに、ギュッと手を握ったら、「骨が折れる!」とか言って、逆に手をつかんだまま床をゴロゴロと転がりはじめたんですよ、怖いなこの人、と。(笑)。

ライヴが終わった後なので、メンバーもテンションが高いままで、そこにスティール・パルスのメンバーも加わって一緒にわいわいと、ちょっとしたパーティー状態。で終わってアンガスがホテルを取ってくれていたので、別々に帰ったんですけれどね。

K 次の日にUAに行って、今度はドクター・フィールグッドのメンバーと昼食会を組んでいるからと言われて。ウイルコ・ジョンソンはやめた後でしたけれど、4人と近くのレストランで。彼らは冗談が好きというか、ふざけながらの楽しい食事会を1時くらいから始めて、3時くらいまでいたんですかね。それでUAのオフィスに戻ったら、その間にジャン・ジャックがバイクで来ていたらしいんですよ。加藤はどこにいるんだ?って。UAの社内では、ジャン・ジャックが来て加藤を探している!と、大騒ぎになっていて(笑)。で後でホテルに迎えに行くって伝言を残してバイクで帰ったと。UAのスタッフからは頼むから今後は会社から外に出ないでくれって言われて(笑)。

(第3回分へ続く)

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